「私は頭がうすいから」

「私は頭がうすいから」

祖父に殴られてうつむく祖母に

「なんで逃げないの」と小学生の私が尋ねたとき、

祖母から返ってきた言葉です。

バカと言うとき祖母は「頭がうすい」と言っていました。

祖母はいわゆる小卒でした。

小学校(という呼び名じゃないかもしれませんが)卒業後、

どうしていたかは聞いたことがないのですが、

17歳で祖父とお見合い結婚をしたそうです。

祖母は私の名前を覚えるのが難しかったようで、

よく私の姉の名前と間違えました。

姉と兄の名前はしっかり覚えているのに、

私はあまり名前で呼んでもらった記憶がありません。

祖母は祖父に「生ごみ」と呼ばれる

魚の骨とゼンマイを入れたスープをよく作ったし、

おかゆには牛乳を入れたり、料理も風変りでした。

そして、祖母は文字が読めなかったので

祖母の姉から来る手紙を読んだり、

地下鉄の切符を買うのは私の役目でした。

(それでも生活において出てくる文字は認識していたと思います)

晩年は10人いる孫たちに「天然」と呼ばれ

みんなに好かれていました。

祖母とは色々ありましたが(主に置き去り)、

私も祖母のことは憎めませんでした。

今思うと、祖母はおそらく

何らかのハンディキャップを持っていたと思います。

時代が、環境が違っていたら、

祖母は頭がうすいと言われ続けることもなく、

殴られたら逃げるという選択ができただろうか…。

私の名前を覚えるまで何百回でも言ったらよかったなと

祖母を思うと心が少し痛みます。



(後記)

晩年癌を患い、入院生活をしていた祖母。

母と私は着替えや食べたいものを届けたり、

結構頻繁にお見舞いに行きました。

が、今わの際に名前を呼ばれることもなく、

祖母の中で私(や母)はうすい存在だったと思います。

殴られている姿を見ていなかったら、私は祖母を憎んでいたでしょう。

きっと憎めなかったのはひとかけらの憐憫。

私たち家族にはやはり愛情なんてものはなかったなと

改めて思うのです。

私はピエロ

飲食店を営んでいた両親。


店にはKと呼ばれるおじいさんがよく来ました。

祖父の妹の夫でした。

Kは実業家で事業を成功させていた、いわゆるお金持ちです。


両親はKに話を持ち掛けられて

故郷である関西を離れ、北海道に引っ越しました。


どんな話があったかはわかりませんが、

いつも「Kにだまされた」とよくぼやいていて、

Kに譲渡されるはずの事業がなくなってしまったのかな~

と幼心に思っていました。


それでもKはよく我が家(飲食店)に来ていました。

Kが来ると、祖父母は大歓迎ムード。

私もよくその席に呼ばれました。夜何時だろうが。


Kは私が大好きで、

よく膝にのせてお酒を飲んでいたのを覚えています。

四角い輪郭と酔って真っ赤になった顔は

「赤鬼」を連想させ、好きになれない人でした。


そして酒が回ってくると、

必ず祖父は「Kさんのほっぺにキスをしろ」と言い、

祖母は私に酎ハイを一気飲みさせ、

大人たちはそれを見て大笑いしました。


ほっぺにキスをして喜ぶKのことは心底気持ち悪かったけど、

大人たちが喜んでくれるのが嬉しかったです。


両親はその時どう思っていたのだろう。

得意の見て見ぬふりを決め込んでいただろうか。

止めてくれることはなかったです。


私はピエロだ。


人の表情や感情を過度に読み、

場の空気を明るくするためには

自分が笑いものになっても構わない。


怒号や泣き声が多い家だったので、

笑っているその空気が私を安心させました。


そうやって生きてきた結果、「自分」がなくなり、

泣くも笑うも怒るもいまいちわからなくて

感情が鈍くなってしまいました。


特に喜びの感情が薄く、何にも心を動かされなかったです。

恋人からも感情が薄いといつも言われていたっけ…。


それでも、

ここで喜ぶ、ここで悲しむ、というタイミングは知っていたし、

どう振る舞えばいいかはわかっていました。


心が本当に揺り動かされるようになったのは

子供を産み、育てる過程でした。


私たちがピエロを見て、

おどけた表情の奥に隠される悲しみに不気味さを感じるように

私の母も私に不気味さを感じていたようでした。

この話はまた後日…。

膀胱炎

小1の頃、膀胱炎にかかりました。


もうすぐ小2になる春のことだったと思います。


祖母と映画館に行ったのですが、

何度も尿意をもよおし、何度もトイレに行きました。


でも数滴しか出ないんですよ。しかも出すときに激痛。


祖母と見に行った映画はSweet Homeというホラー映画で

(祖母の映画のチョイス…笑)

怖いから席を外していると思っていたと思います。


その日より前に違和感を感じていたかどうかは覚えていません。

覚えているのはその映画の不気味さと激痛です。


痛みを感じてもなかなか親には言えず、

痛いのが嫌で、尿意が来ても我慢するようになり、

よくもじもじしていました。


母に「我慢しない!」って言われていた覚えもあります。

それが膀胱炎の前か後かはわかりませんが…。


そうやって我慢するうちについに血尿が出ました。

さすがに親に言い、病院に連れて行ってもらいました。


病院で先生に、

「トイレに行きたいときはすぐに行くんだよ」と言われました。

「おじさんならわかるんだけどね、こんな小さな子がかかるとは…」

とも言われたことを覚えています。


尿意を我慢したけど、それは痛みを感じた後のこと。

でもばい菌が入ったのかなあと幼心に気づき、恥ずかしくて、

先生に何も言えなかったのをよく覚えています。


治療は薬を飲んで治るようなものではなく、

尿道にストローみたいな管をさして直接消毒するものでした(たぶん)。


当時はわけもわからず、

でもストローを入れる様子がとにかく怖くて、痛くて、

二度と膀胱炎になりたくないと思いました。


何度か病院に通い、そのたびストローをさされ、

そのうち普通にトイレに行けるようになっていました。


大人になって何度か膀胱炎になりましたが、

全て薬で簡単に治ったので、

小学校一年生で血尿まで出るというのは

相当我慢してしまっていたんだろうなと改めて思います。


我慢したかったのは、きっと隠したかったから。


この事態を引き起こした祖父は

通院する私を見て何を思っていただろう…。

きっと病院の先生が気づきませんように!

私が本当のことを言いませんように!…かな。

迷子センターの「顔」

今日は幼少期の私と祖母とのエピソードを。

共働きの両親に代わり、私を見ていたのは主に祖母です。

祖母は買い物が大好きな人で、

よく近くのダイエーに一緒に行きました。

そのダイエーはただの食品スーパーではなく、

雑貨や日用品、服なども売っていて、

今で言うフードコートもありました。

街では一番大きいスーパーでそこによく連れていかれました。

記憶の中で祖母はいつも服を見ていて、

くるくる回るハンガーにたくさんかかった服が

所せましと並んだ売り場で、

身長がまだ小さかった私は簡単に迷子になりました。

気づいたら祖母がいないんです。

自力で祖母を探せる日もあったし、

探せなくて迷子センターに行く日もありました。

そして、

迷子センターでアナウンスをすると

祖母がすぐ来るときもあったし、来ない時もありました。

何度迷子センターに行ったかは覚えていません。

でも、迷子センターの係りの方が呆れ顔でぼやいている姿は

はっきりと覚えています。

子供ながらに居心地が悪かったです。

ある日、迷子になった時、自力で家に帰りました。

距離にして1.5キロくらいだと思います。

それが初めてだったか覚えていませんが、

一人の帰り道は断片的に覚えていて、

寂しくも、悲しくもなく、心はフラットでした。

まるでそれが日常かのように。

道さえわかれば帰れます。

住所も電話番号も知らない小さな私は

自然と道を覚え、自然と誰も助けてくれないことを学びました。

前回お話した通り、

両親は住居兼店舗で働いていたので、

一人で帰ってきた私を出迎えたはずです。

家に帰って両親がどういう反応をしたかは覚えていません。

でもそれからも普通に祖母とダイエーに出かけていたので、

特に両親が祖母に私を預けるのをやめたとかはなかったです。

今思うと、パチンコ狂いの祖母のことですから、

私のことを放っておいてパチンコ屋にでも行ってたかもしれませんね。

迷子センターを託児所代わりにする親がいると

ニュースで聞いたことがありますが、

昭和の時代もいたわけです。時代の最先端ですね。笑

そんなパンチの効いた祖母。

幼少期は祖母との思い出が良くも悪くもたくさんあり、

私は祖母のことはわりと好きでした。

少し憐れに思っていた部分もあるかもしれません。

また今後ゆっくり話します。

私の育った環境

私は北海道で生まれ育ちました。

関西生まれ育ちの祖父母と両親、そして姉、兄の六人家族です。

祖父母は同居していたり、していなかったりで

記憶の中でもいたりいなかったり。



最も古い記憶をたどれば、母は専業主婦でしたが、

5歳の頃に父が飲食店を始め、母も働くようになりました。

住居の下が店舗だったため、両親ともに共働きですが、

ずっといなかったという感じではないです。



ですが、私の面倒を見ていたのは主に同居の祖父母でした。


祖父母ともに定職に就いたことはなく、当時も無職。

祖父母共に軽度のアルコール中毒者(ずっと飲んでいました)、

そして祖母はパチンコ狂い(おそらく祖父は行っていなかったと思います)、

それだけでも変わった環境と言えますが、

それに加え、祖父はDV気質があり、また私に性的虐待を加えた

絵にかいたようなクズでした。


私の人格に大きな影を落とすことになる祖父母。

祖父母の話をまずはしていきたいと思います。

幼少期、

保育園に通っていたので、保育園から帰ると

いつも祖父母の部屋に入っていきました。


廊下の一番奥のその部屋は入る前に

とてつもない暗闇があり、そこには青い亡霊が住んでいました。


私の妄想です。

でも、小さな頃、その部屋に入るときに青い亡霊をいつも見ていました。

カーテンが閉められた薄暗い部屋で

祖父母と一緒に布団に横たわりテレビで時代劇を見ていることが多かったです。

未就学児ということもあり、外で遊ぶことはあまりありませんでした。



テレビを見ていると、

時折、祖父が祖母を殴り、蹴り、

私はそっと部屋を出る…。罪悪感を感じました。



その記憶だけがはっきりと頭に残っています。


また少しずつ話しますが、

祖父母の部屋ではいつも同じ夢をみて、

決まって夢のあるシーンで息苦しくなりました。


そうやってぼんやりとした映像で記憶されていたのですが、

そう、私はその部屋で祖父に性的虐待をされていたのです。

時代劇の音声、重み、息苦しさ、恥ずかしさ、感覚…

思い出すことを拒否し、今でも思い返すと動機がします。

これもおいおい話しますが、当時はかわいがられていると錯覚していました。



祖母はもしかしたら気づいていたのかもしれません。

そして殴られている日はもしかしたら阻止していたのかもしれません。



残念ながら祖母に愛されていた記憶はなく、

当時は一番かわいがっていてくれたのは祖父だと思っていました。



祖母はわかっていたのか、守ってくれたのか、

それでも私を疎ましく思っていたのか、気持ち悪く思っていたのか…。



二人とも他界した今、確かめることはできません。

でもきっと生きていたとしても、確かめることはできなかったでしょう。






はじめに

ブログを読みに来てくださってありがとうございます。

タイトルの通り、私は性的虐待サバイバーです。


おそらく5,6歳の頃。実の祖父からです。

長らく記憶がすっぽり抜けていて、39歳の時に思い出しました。

36歳の頃に祖父が他界し、そこからすごく不安定になり、

育児疲れもあり、実家や実姉とどうしてもうまくいかなくなり、

もうこの世からいなくなろうかと思っていた頃に思い出しました。


うっすら、断片的に思い出してはいたものの、

具体的には思い出さないでおこうとしてたはずなのに、

よりによって不安定な時期に思い出してしまいました。


「なんでこんなに生きにくいんだろう」ってぼんやり考えていた時に

ふと思い出してしまったのです。


部屋の空気、暗さ、体の重み、熱、匂い…

思い出すなと心が警告するほどはっきりと思い出しました。


妄想なのか、現実なのか、

いまだにわからずはっきりしない、させたくない自分もいます。


でも「生きにくい」原因はここにあるとその時はっきりわかりました。

今はもう少し様々なことを思い出しています。


それから3年、時折酷いフラッシュバックがあり、

(私は気づいていませんが)夜中にうなされたりしながらも、

過去の自分に向き合うことができるようになってきました。


思い出して半狂乱になる私に夫は

「ようやく事実を受け入れる精神力を得たってことかな。安定している証拠。」

と肯定的にとらえてくれたし、何より虐待の事実に驚きも蔑みもなく、

淡々と受け入れてくれました。


のちに知ったのですが、

人間はあまりにひどいストレスがあると記憶がすっぽり抜けてしまうそうですね。

抜けてしまったんなら二度と思い出さなくてもいいんですけどね。笑


それでも思い出してしまったのは、

本当の意味で乗り越え、この「生きにくさ」を軽減するためなのではないかなと

個人的には思っています。


今私は夫の仕事の関係でアメリカに住んでいます。

生まれ育った日本から遠く離れ、実家とも物理的に遠く離れ、

精神的にとても安定しています。


とってもとっても心が軽くて、毎日穏やかで幸せです。


でもいつか日本に帰るその時、

リバウンドとして精神的にひどく落ち込むのではないかと

正直、危険を感じています。


いつか日本に帰るその日まで、

過去のこと、今のこと、経験したこと、感じたことを記録しながら

ちゃんと過去を乗り越えていきたいです。


乗り越えられるかはわかりません。


でも、知らない誰かが一緒に心を痛めて、慰めてくれて、

「頑張ったね」ほめてくれる。それだけで、

私の中の小さな女の子が、やさしく抱きしめられている気がします。


ちゃんと泣けなかった小さな君へ。

これからちゃんとさよならさせてください。