迷子センターの「顔」

今日は幼少期の私と祖母とのエピソードを。

共働きの両親に代わり、私を見ていたのは主に祖母です。

祖母は買い物が大好きな人で、

よく近くのダイエーに一緒に行きました。

そのダイエーはただの食品スーパーではなく、

雑貨や日用品、服なども売っていて、

今で言うフードコートもありました。

街では一番大きいスーパーでそこによく連れていかれました。

記憶の中で祖母はいつも服を見ていて、

くるくる回るハンガーにたくさんかかった服が

所せましと並んだ売り場で、

身長がまだ小さかった私は簡単に迷子になりました。

気づいたら祖母がいないんです。

自力で祖母を探せる日もあったし、

探せなくて迷子センターに行く日もありました。

そして、

迷子センターでアナウンスをすると

祖母がすぐ来るときもあったし、来ない時もありました。

何度迷子センターに行ったかは覚えていません。

でも、迷子センターの係りの方が呆れ顔でぼやいている姿は

はっきりと覚えています。

子供ながらに居心地が悪かったです。

ある日、迷子になった時、自力で家に帰りました。

距離にして1.5キロくらいだと思います。

それが初めてだったか覚えていませんが、

一人の帰り道は断片的に覚えていて、

寂しくも、悲しくもなく、心はフラットでした。

まるでそれが日常かのように。

道さえわかれば帰れます。

住所も電話番号も知らない小さな私は

自然と道を覚え、自然と誰も助けてくれないことを学びました。

前回お話した通り、

両親は住居兼店舗で働いていたので、

一人で帰ってきた私を出迎えたはずです。

家に帰って両親がどういう反応をしたかは覚えていません。

でもそれからも普通に祖母とダイエーに出かけていたので、

特に両親が祖母に私を預けるのをやめたとかはなかったです。

今思うと、パチンコ狂いの祖母のことですから、

私のことを放っておいてパチンコ屋にでも行ってたかもしれませんね。

迷子センターを託児所代わりにする親がいると

ニュースで聞いたことがありますが、

昭和の時代もいたわけです。時代の最先端ですね。笑

そんなパンチの効いた祖母。

幼少期は祖母との思い出が良くも悪くもたくさんあり、

私は祖母のことはわりと好きでした。

少し憐れに思っていた部分もあるかもしれません。

また今後ゆっくり話します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です